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おじゃり申せ、たねがしま その1

2005.7.6
ショーブン

No.1233

レースコースや、大会運営についてなど昨年詳細にレポートされた先達アウトリガー沖田さんにあらためて感謝いたします。おかげさまで、文字通り駆け足の鹿児島―種子島―屋久島、短い滞在ながら楽しく充実した時間を過ごすことができました。それにしてもなんでまた、わざわざ種子島へマラソンしにいったのか?振り返ってみますと。

2005年は阪神・淡路大震災被災から10年、毎年厳粛な気分になる1月17日一週間前あたり、今年はどんな大会を走ろうかなとブラウズしていて、アウトリガー沖田さんのレポートにいきあたったのです。種子島ロケットマラソン、遠いなあ、でも面白そうだな、思い切って行ってみようかな。この大会を知ったことが、代々木RCに入会するきっかけともなったのでした。

転勤を機に習慣的に走り出して3年がたち、初めてフルマラソンにエントリしたのが95年3月の篠山ABCマラソンでした。教科書は「ゆっくり走れば速くなる」。はじめは近所の小さな公園で遊具の間をLSD、
その頃すまいは芦屋と西宮の境にあって練習コースは大阪―神戸間いたるところ、芦屋浜から夙川、甲山から菊水山までの六甲縦走、あるいは海遊館から尼崎あたりへ、さらに浜沿いに酒蔵通りを灘、三宮へ。淡路島でたまねぎ畑をずっと走ったことも。えべっさんや中華街の旧正月、春夏の甲子園、天神祭り、ジョギングがどこでも即観光になってしまう楽しい日々、おのずと走行距離は伸びていきました。はじめての10kレースは千里万博会場で太陽の塔をめざして、それから生野の銀山湖で15km、ハーフは阪神高速湾岸線開通記念レース、と少しずつ距離を伸ばし、ついにフルにむけて走りこんでいた95年正月、その日1月17日も連休明けながら布団の中でストレッチをしながら軽く走るつもりですでに起きておりました。

大地震、てっきり爆発かと思った最初のたてゆれ、バスケットボールの中でドリブルされるような感じでした。町内では死者36人。いうまでもなくその年の篠山は中止、近所の風光明媚なジョギングコースはあちこちが地割れ、アスファルトは盛り上がり、建物が高速道路が鉄道が倒壊、グラウンドは避難所・仮設住宅になり、そんな中を走る気になどずっとなれずに。それから東京に戻って、それでも2年後に初マラソンはどうしても篠山で果したくて、完走のゴールは泣けました。被災したけどこうして生きて、走っていられる、ありがとう、ありがとう。

それから篠山につづけて参加したあとはフルはずっと年に一度のつくばマラソンだけで、そろそろ他の大会にも目がむいて。フル10回目の記念に、思い切って遠くへいってみよう、という動機付けがつよくはたらいたのです。

気をもんだ2月のH2Aロケットの発射も無事成功、その後民宿を予約した折に祝意を伝えたところ、島の大半の産業はロケットで支えられているとのことでほんとうに喜んでいる様子、これなら楽しく行けそう。よかったよかった。そうして、地図をみているとなるほど、隣の屋久島まではジェットフォイルで1時間ほど、よおし、完走して焼酎で乾杯、屋久杉の森で千年余の命にふれる空気をたくさん吸って帰ってこよう。そうしてまたつぎのマラソンを走ろう、でかけるまでにはそんな気にもなっておりました。

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種子島といえば、鉄砲伝来とロケットとマラソン、だそうです。


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更新:2005.7.6
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