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TTR50参戦記 2007●その1

2007.6.5
ショーブン

No.1400

まず謹みて高橋香選手のご冥福を祈ります。山を走る、こんなに好きになるなんて思ってもいませんでした。代々木RCでもトレイルランニングはきっとますます愛好者が増えることでしょう。因縁浅からぬ代々木RCのみなさんにこの文章を読んで山に入って、ふとなにか思い出していただければ幸いです。

2006年4月29日、エントリしていたTTRことチャレンジャーズレースは悪天候を理由に中止となりました。申し込み者は翌年に繰り越し出場可能。
ふ、執行猶予一年か、違うな、ぼくは楽しみにこそいきたい。よし、そのためにも鍛えようとそれから二十たび越える山行、コースの下見も重ねて。雨、雷、風、転倒に点灯、やぶ漕ぎにハンガーノック、装備や補給をたしかめ足をたしかめ、いろんなことを経験したつもりになって一年後の5月12日の朝、ドキドキしながら青梅のスタートへ向かいました。いつものロードレースとはちがう緊張感です、長時間動き続けることになるカラダ、調子はどうよ、問題なさそう自問自答。

このレース、標高200mほどの青梅永山公園から青梅ハイキングコースを辿ってから、まるでがけをおりるように平溝橋に出て、高水山から棒ノ嶺(969m)へ、大好きな蕎麦粒山(1473m)、一杯水避難小屋、酉谷避難小屋、おなじく大好きになった長沢背稜、苦手の芋の木ドッケ、そうして雲取山(2017m)を登りきってから七つ石山への登りをトドメにあとは奥多摩湖のほとり鴨沢まで降りていくコース、東京と埼玉・山梨の都県境を辿ります、と言ってもピンとくる人は少ないかもしれませんね。距離は40マイル(64km)、制限時間は16時間。トモさんが入賞され小虫さんも最年少完走賞だったこの倍の距離をいく80マイル(制限時間32時間)が本チャンのフルのレースすれば、こちらの40マイルはハーフ、カロリー二分の一でしょうか、それでも自分には大変な初トレイルレースです。時間内ゴール、できれば奥多摩駅発の終電に乗る、を目標に。下見の成果として、一杯水避難小屋を自分の中間点として、前半を7時間、後半を7時間半という計画を立てました。(結果は前半は予期せぬ出来事つづきながら6時間25分、後半は夜間経験不足・疲労蓄積で8時間15分の計14時間40分でした)

午前八時スタート、みなどんどんのぼり坂を先行していきます。おおーっ、やっぱ走るのね、ぼかあ、いつもどおりに坂はゆっくりいきますよ。平坦になって、よしっ、と走り出すといきなりリュックのひもが切れる、というありえないトラブル、だましだまし進んだものの、このままでは、アンバランスで身体にも悪そう、どうしよう、そうかこのバンダナだ、一時間半たってたどり着いた高源寺の鐘の下、どかっと座って汗拭ったバンダナで留具同士を結わえて。それにしても、ありえない、ここが切れるなんて、不吉だな、完走できるのかな、いやいや、前向きに考えよう、バンダナはやっぱり山の必携品でしたとみなに知らせよう。

そうして、序盤の棒ノ嶺の手前、スタートして三時間半ほど、ゴンジリ峠というあたり。数度の下見ではこんなに早く来られたことはなかった。抑えたつもりがやはりレースはハイペースになるのだと実感。ふと気づくと前方にたくさんの選手が一団となってなにかゆっくり運んでいるかの様子、近づいてみれば、運ばれているのは、赤と黒のあの短パンは、高橋選手じゃないか。スタート前にトモさんにあれが高橋選手ですよと教えてもらって羨望で見つめた日焼けした筋肉質の身体があおむけに運ばれていました。上半身は、みなのストックでしょうか、担架のようにして載せて急坂をあがります。ぼくはてっきり意識不明なんだと思いこんで、ともかくみなで交代交代で担いでいる輪に加わって、右足を持ちました。すらりと伸びたふくらはぎ、太ももはさすがに太いのですが脚全体はしなやかなんだなあと妙なことに感心したり。「高橋君じゃないかあ、まさか、なんてことだ、誰か連絡はしたのか」と自分同様あとから追いついてきたどなたかが叫びました。それに応じたどなたかの発した言葉から、もう本部には連絡してあり、救助のヘリと棒ノ嶺頂上で合流することになったことなどすこし
様子が知れました。「重くなったら替われよなあ、無理しないでなあ」誰かが声をかけながら、何人もが交代してはすこしずつ、急な丸太の階段の脇を登っていきます。やがて交代した人のストックを受け持ち、一緒にのこりわずかな距離を歩いていきました。その集団のすこし前をいき、道の石や枝を払っている小虫さんに気づきました。「高橋選手だよね、どうしたのかな、ここまで追い込んじゃえるってすごすぎるよね」と話しかけると、小虫さんは悲しそうな顔で、もう助からないのかもしれない、二十分以上人工呼吸してたんだよ、って教えてくれました。そうだよな、ぼくが追いつく時間だもの、きっといままで長い時間、必死の救命活動だったのだろうな、と気づきました。

頂上のベンチに横たえられたからだ、数分後にヘリが来て、まずは救助隊員が再び人工呼吸やAEDをつかったのですが、うごきがなく。遠めにみても、え、亡くなってるの?と、だんだん動揺してきました。さっき足もったけど、温もりあったよ。もう一機のヘリがやってきて、空中でホバリング、一面土埃が舞い上がり顔に当って痛い、爆風に立っていられず、かがみこんで、そうして、バッグに入れられたからだがヘリに、すぐに飛び去るヘリ。

ああ、生きていて!、がんばれ!と見上げて念じたのですが。「選手のみなさん、ここに集まってください、本部に確認しました」大会主催者がレースの続行を宣言しました。その場に二十人くらいはいたでしょうか、えーっと動揺を隠さないひと、さっと離れて走りだす人、小虫さんに、どうする?と力なく聞けば、行きますっ!と力強く。報道があればみな心配するだろうなあ、下山しておこうかなあ、とリタイアすることもよぎったのですが、うん、そうだね、行こう!、病院で手を尽くせばまだ分からないじゃないか、自分がここでめそめそしてても何もならないんだ、と走り出しました。

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ここがスタートの青梅永山公園


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去年泊まったときの写真、雲取山荘


更新:2007.6.5
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