トップページに戻る リストに戻る
ヨヨマーク画像1
TOPHOMELISTBACKNEXT

TTR50参戦記 2007●その2

2007.6.12
ショーブン

No.1402

時計をみると十二時十分でした。一応計画では棒ノ嶺を4時間で通過できればと思っていたので、うん、ちょうどいい時間じゃないか、と頭の隅で考えました。さあ自分のレースを再開しました。目前の難所や急坂にあえいで、水吸って、走って、ああ、ぼくは生きている、走っている。病院で蘇生してほしい、がんばれ、ぼくもがんばる、ときどきぐっとこみ上げてきます。他者の死(まだその時はそうは思いたくなかったのですが)によって自分の命をつよく感じた体験、あのときの、阪神淡路大震災被災以来のぞっとする感覚がよみがえってきました。しかもその「ぞっと」は、恐怖ではない、自己陶酔に近い、粟立つような寒気のするぞっと、ぼくは生きている、という甘美なうぬぼれです。おいおい、しっかりしろよ、ボーっとしてるとケガするぞ。レース中の自分、ボーっとする自分、交互に訪れる。やっと着いた一杯水で、列に並んで何人かと言葉を交わして、バッグに水を入れて立ち上がって、後ろに並ぶ人に道をあけ、うん、いくよ、大丈夫だ、まだまだ先は長いんだ、気分は前向きです。尾根をわたる風、場所によって木々の葉や草がくるくる廻っています。ざわざわ、くるくる、はあはあ、自分の呼吸。立ち止まって深呼吸10回、よし、まだ行ける。道中はほとんど一人きり、山のかみさま、遊ばせてもらってますよ、ありがとうございます、倒木をくぐり、回り込む尾根道に勢いつけて、少しのぬかるみをまたぎ、崩落した崖道をそっと、通り過ぎるこの時間がいとしい、八百万(やおよろず)の神々に感謝、よし、いつものペースだよ、鈴が小さく鳴ってれば自分は走ってる。

自分はトレイルランニングというよりも、早歩きしている程度なのですが、やはり疲労をためこんでいきます、足もずい分あがらなくなっているようです。午後5時過ぎ、長沢背稜を南側にのりこむところ、ここは携帯電話がつながることを下見で分かっていたのでメールを見たり送ったり。ありがとう、うん、いろいろあるけどあと5時間くらいでゴールできるはず、いくよ、とにかく前へすすむよ。それから、芋ノ木ドッケのあたり、追いついた八十マイルの選手のひとりが「あんなことがあったしね、ぼくは鴨沢でリタイアします」と。そうですね、みなやはり胸に思いを抱えているんだ。しばらくしてもうすぐ大ダワへの急な下り、ストック持って立ち止まっている選手から道を聞かれます、こっちでいいのでしょうか、ふふふ、ついてきてください、なんてえらそうに言ってみたり。そう、ここはね、斜面右手にいくのが正解なんです、西側の斜面だからまだかすかに残る夕陽で下りやすいでしょう。
そうして、いよいよすっかり暗くなってきて、午後七時にヘッドランプを点灯しました。じつは多少練習はしたもののレースでヘッドランプを使うのは初めて、不安も抱えて、振り切って、いろんな思いしながら、男坂。ここも下見で意外なポイントだったので覚えています。なだらかな登りには行かせてくれない赤い矢印。おうよ、こちとらも男よ、などと自ら励まして。

さあ、思い出の雲取山荘を足早に通り過ぎ、まっくらになっての雲取山頂へは長かった、三度目にして風のない山頂に立つ。ああ、うれしいなあ、ここまで来られたよ、ここ来たかったんだ、かどさん、この靴すごいっす、ぼくを連れてきてくれた。そうそう、かどさんのあのレースを思えば、もうちょっとでこれ終わっちゃうんだ、そう思えました。周囲の山なみの上のほう、かすかにオレンジ色がのこっていて。試みにヘッドランプを消したら、満天の星がきれいで、泣けました。子らに見せたいなあ、これだって東京の空、だと。まあ、あいつらもぼくのこの年になるまで見ることはないかもしれません。それでもいいんだ、きっと自分で来たくなる。

七つ石の最後のチェックポイントの手前、追いついた大阪は八尾から参加という選手としばらく同道できました、八尾といえば信貴山ですね、ケーブルカーも乗りましたよぉなどと楽しく話しかければ、「あー、でも足があかんから、かまわずいってや」はい、それではお先に、とペースを上げたつもりでしたが、すぐに追いつかれて、「道もようなって、助かったわ」。くそ、昼間の下見ではここはバスの時間で、脱兎のごとく走れた道、明るければもっと速いのに、いやちがう、そうではないのです、疲れているのです。そう、いつも転ぶのは下山、終盤、ここでケガするわけにはいかないんだよ、と慎重を期します。漆黒の闇、うしろから、シャンシャンシャンシャン、と鈴の音が近づいてきます。選手と知っていてもなにか怖い、でかい鈴だな、ああ、抜かれたよ、おおーっ鴨沢からまだ先行く人じゃん、すげえや、さすが。

鈴を追って、ようよう煌煌たる明かりの灯る鴨沢のグラウンド、自分のゴールです。遠目に赤いライトを振って応援してくれてるのが分かります。こちらのヘッドランプが見えるのでしょう。ひさかたぶりのアスファルト、堅いなあ、いたいなあ、よしちょっと走ってみよう、橋渡って、グラウンドまで、うん、大丈夫だよ、しっかり走れるじゃないか、ははは、笑いがこみあげてきます。よかった、ゴールできるんだ、ありがとう、ありがとう。「14時間39分45秒」、完走証がA4普通紙モノクロのプリントアウトとはそっけない、でもうれしさひとしお、うんうん、よかった、無事に終えたんだ。

そこから、自動車で川井の本部に搬送してくれると知り相乗りしたのですが、運転手をされていた方が高橋選手のことをとても残念そうに話されました。それまではっきりとは分かりませんでしたが、どうやら亡くなられたことを覚りました。座っていた姿を見た人、それから横たわっていた姿を見た人、そうしてうつぶせになって、そのころにさしかかったのか心得のある人ほかで救命活動がなされたこと、棒ノ嶺でヘリに乗せることになったこと、自分はそこに遅れて後からさしかかったのだと分かりました。足を持って運んだことを話しました。何人もの人がリタイアしたことも知りました。高橋選手のことが大きく影響したことはいうまでもありません、親しい人にはショックが大きかったはずです、リタイアした選手、続行した選手それぞれに悲壮な決断だったと思います。

余談とするには惜しいのですが、搬送してくれた車に、なんとずっと先にゴールされていたぱらだいむさんが同乗していたのです。降りるまでお互い気づかず。川井の自治会館にある本部で同宿、翌朝始発に一緒に乗り帰宅、それから2週間後にも棒ノ嶺でばったり、ふふふ、ぼくら赤い糸かしら。

さて、ご両親さまのご心痛はいかばかりかと察するに余りあり、わが身も二児の父親としてレース中から胸が張り裂けるような思いをしました。自分にも生涯忘れえぬはじめてのトレイルレースとなりました。高橋選手のことも忘れることはないでしょう。山へ行くときは、必ず入らせていただく、という感謝と畏れをもって臨みます、それはこれからずっと変りませんよ。合掌。

画像1

暮れていく雲取のあたり


画像2

七つ石山にむかう尾根、星を見上げたあたり


更新:2007.6.12
TOPHOMELISTBACKNEXT